Monday, March 30, 2015

Baby Back Ribs

フィリピンに行ったらぜひトライすべし! とある敬愛する人物から薦められていた Baby Back Ribsをマニラ滞在3日目にようやく食しました。
ナイフはほとんど要らず、フォークでほろほろと肉がほぐれ取れてきて、 ソースの漬かり具合もよく 脂っこすぎることなく大変美味でした。

Sunday, March 29, 2015

Palm Sunday 2015 in Manila

3月29日から聖週間が始まった。復活祭までのこれから1週間、全国の教会でキリストの「受難」と「復活」を住民たちが追体験するさまざまなミサや苦行などが繰り広げられる。

人々はパラスパス(ココナッツの葉で作った飾り)を手に教会で祈りを捧げ、司祭に浄めてもらったパラスパスをこれから1年の幸運のお守りとして家に持ち帰る。

休暇をとる人々も多くバスターミナルは帰省客の波で終日ごった返していた。マニラからの脱出困難が予想される。


フィリピンから旅の再開

3月29日(日)


Saturday, March 28, 2015

フィリピンはメキシコに似ている

3月28日(土)
朝3時半まで写真動画の整理をしてそのまま朝まで起きてようとしたがいつのまにか寝入っていた。4時半のアラームで辛うじて覚醒。5時11分発の始発でセントレアに向かう。9時40分発のフィリピン航空で一路マニラへ。
4時間半のフライとはエアバス新型で食事も出てビールも飲め、ブランケット、日本語の新聞まであり、いい感じで睡眠もとれ快適だった。
空港からターミナル間のシャトルバスでエアポート・ロードまで行き、それから徒歩で高架鉄道Line1のバクララン駅へ。キリノで下車。さらに徒歩でマラテ地区の予約してあるゲストハウス"Where 2 Next Manila Guesthouse"に。特になんの問題もなく15時半までにチェックイン。身軽になって町を早速散策。
フィリピンはキリスト教で、スペイン植民地時代があり、熱帯地域でもあり、雰囲気がメキシコに似て緩い感じで、すぐに気に入った。マニラは危険というステレオタイプもそこで生活している人の動きに倣えば大丈夫そう。
おなかがすいたので安食堂で、ポーク・アボドという豚肉の煮込みの定食を食べる。98ペソ、日本円で260円。マラテ地区はいわゆる歓楽街で、いわゆる風俗店、韓国料理店、日本料理店が目立つ。日が暮れると妖しい感じがどんどん強くなっていくが、強盗に遭う感じではない、少なくとも23時頃までは。
しかし通りには、乞食やストリート・チルドレンが多い。キリスト教は他宗教に較べ貧富の差を容認している傾向が強いのか。段ボールも敷くかず行き倒れのように通りで寝ている兄妹の姿が痛々しい。すぐ目と鼻の先では小綺麗な格好をした親子連れがしゃぶしゃぶに舌鼓をうっている。

マニラ、マテラ地区


動画「チェンマイ編」

動画「チェンマイ編」
イーペン祭りを中心に

動画「ベトナム編」

動画「ベトナム編」
滞在はホーチミンのみ。ひたすら古い記憶の街路を探して歩いた。

Wednesday, March 25, 2015

動画「ミャンマー編」

ふと気がむいて先日の静止画のスライドショーに対して練習がてら動画を編集してみた。まずはミャンマー編。
ほとんど繋ぎ合わせただけで、気をつけたのはテンポだけ。それにしても編集云々の前に素材が全てだと強く実感。僕は肝心な部分は動画を撮るのを忘れてるか、無意識に抵抗感があるか、静止画で撮りたい人らしく、撮影されていた素材を繋ぎ合わせると、ひたすら移動し市場と街路を歩くという非常に散文的な作品になってしまった。でも、このパンチラインのない間のびした感じ、個人的には気に入っている。
説明しようとせずもっとプライベートな撮影でいいのだなぁ。編集しててはじめて気がついた。これからの動画撮影はそうしよう。

『はじめての福島学』開沼博

この本はオススメ。

Tuesday, March 24, 2015

うな丼怖い

人には誰でも怖いものがあって、僕は長くてぬるっとしたものがどうにも怖い。

なかでも苦手なのがうなぎだ。生きていたらもちろん、たとえ死んでいて開いて形が変わっていても、炭火で炙ってタレを塗って芳ばしい匂いがしていても、 うなぎの生きてる時の姿が頭に思い浮かんで寒気がしてくる。想像するだけで寒気がするくらいだから、もし無理やりうなぎを口の中に入れられたらひょっとすると死んでしまうかもしれない。

しまった! うっかり自分の弱点を告白してしまった。もしこの投稿を僕のことが嫌いな人が読んでいて、器からはみ出すような「うな丼」を出前か何かで送りつけてきたらどうしよう。

どうかくれぐれも変な気を起こして、僕にうな丼を送りつけてきたりしないで。山椒や肝入りのお吸い物と一緒に出されたりしたら、それはもう怖くて怖くて、熱くて苦いお茶まで怖くなってしまうだろうから。

人口一人あたりのうなぎ消費量が日本一という三重県津市。本当かなと思うけれど、確かによその土地より車を走らせていて見かけるうなぎ屋の数も多い気がするし、子供の頃からうなぎを食べる機会も多かった気がする。

三重の名前の由来は「水辺」から、津はかつて「安濃津」とよばれる三大港を抱える藤堂藩の城下町、至るところに汽水の溜め池があった。郷土史によれば江戸時代、藩主が藩士の体力を向上させるためにうなぎ屋を城下に集めたことから広くうなぎを食べる習慣が生まれたようだ。

特に有名店でもない近所の人が集まるうなぎ屋さんのこれがうな丼の「上」。2千円ぐらいだった。2、3年前はもう少し安かった気がするが、時勢的に仕方ないのだろう。

ああ、うな丼怖い。死ぬかと思った。

Thursday, March 19, 2015

旅のスケッチ2 Myanmar

ミャンマーのヤンゴンには留学時代からの友人がNGOの仕事で駐在していて、彼の家にお世話になった。

約15年ぶりに訪れたミャンマーは民主化の流れで大きく変わっていくその真っ只中で、ヤンゴンはすっかり変わってしまっていた。それでも路地の奥に足を踏み入れたり、首都を一歩離れれば以前と変わらぬ風景がそこここに広がっていて少しほっとした。

それにしてもモノクロの方が実際に見たものに近い感じがするのはなぜだろう?


旅のスケッチ1 Looking for Peter in Melaka

今回の東南アジアの旅は、連絡がとれなくなっていた大学時代の恩師ご夫妻を探すことから始まった。手がかりは彼らがマレーシアのマラッカへ移住するかもしれないという日本での数年前の彼らとの会話とその時に見せてもらった町の写真の記憶だけだった。

本当に彼らがマレーシアのマラッカに移住したのかどうかも、移住していたとしても今もそこにいるかどうかも分からなかったが、手がかりはそれだけだった。とにかく現地に行ってみるしか方法がなかった。

日本からクアラルンプールに飛んで一泊し、翌日マラッカ行きのバスに乗り込んだ。おぼろげな記憶だったが見せてもらった写真の一枚には運河のような川とその両岸に建つ植民地風の建物が写っていて、マラッカ市内で川といったらおそらくオールドタウンの一角だろうとあたりをつけた。もし自分が彼らだったらどんな所に出入りするだろうかと考えながらザックを背負ったまま街路を歩き、雰囲気のいい「ラズカシミール」という一軒の雑貨屋に入った。

自分は日本からやってきてピーターという名前の白人のアメリカ人の知り合いを探している。奥さんは日本人で二人の年齢は70歳ぐらいだ。あなたは彼らのことを知りませんか?そう店主に質問すると、店の主人は笑ってよく知っていると答えた。「あなたは正しい場所で正しい質問をしている」そう彼は言い、携帯電話を手に取り、友人と名乗る日本人が訪ねて来ていると伝えて一言二言話すと僕の名前も確認せずにあっけなく電話を切った。「すぐここに来るよ」彼はそう言い、本当にすぐにピーターが店に現れた。

驚いたことに彼らは僕が立ち寄ったその雑貨屋の二階に暮らしていたのだ。



Saturday, March 14, 2015

『さらば、愛の言葉よ』

ゴダールの 『さらば、愛の言葉よ』を新宿で鑑賞。物語が反復されていると思っていたら異なる展開が待っていたり、右目と左目が共同で対象を見つめその3Dを際立たせた上で左右の目がそれぞれ違う対象を見つめはじめたりとたりと、鑑賞者は映画の物語の内と外を忙しく出入りさせられる。
しかし明け方の5時頃まで飲みつつ話し込んだあと寝て、昼食後の鑑賞だったので、頭を使って映画を楽しむことは早々に放棄し、夢とうつつの間で心地よく映像とフランス語の音を楽しんで過ごした。
ゴダールの映画を観ていつも眠気を催すのは、それが難解だからだというより、作品が夢の文法に近いからのような気がする。

Don't Follow The Wind

東日本大震災から4年が経った2015年3月11日、“見ることができない”展覧会「Don’t Follw The Wind.」がスタートした。

同展は東京電力福島第一原子力発電所の帰還困難区域内に国内外12組のアーティストが作品を設置。同区域内にある民家を借りるかたちで展覧会を行っている。

帰還困難区域の封鎖が解除されるまで見ることが出来ず、帰還困難区域の封鎖がいつ解除されるかは明らかではなく、3年後になるか10年後になるかわからない。その期間は現在を生きる私たちの生涯を越えてまたがり、私たちにアートと時間の関係性、時間と環境の関係性を再び問いかける。http://dontfollowthewind.info

Friday, March 13, 2015

La Canción Mixteca

大学時代の友人と原宿のメキシコ料理店で食事。テーブルをまわるマリアッチに「カンシオン・ミステカ」をリクエストした。古くからの友人はこれから増えていくことはない。大切にしたいと思った。

Paris, Texas - Cancion Mixteca (Vocals)

三崎自慢

今朝、魚市場にあがったムツとイワシ、マグロの刺身をその日の昼食でいただく。

Thursday, March 12, 2015

blog検討中

写真や動画を添付する投稿の簡便さについては、Facebookがやはり群を抜いて使いやすいが、タイムライン重視で過去の投稿がダイジェストされてしまうのが、致命的。もちろんアカウントを持つ本人はアクティビティ・ログから過去の投稿を見ることはできるが、どうも使いにくくて仕方ない。

現在、blog、YoutubeをGoogle+と連繋する方向で模索してるのだが、実際にやってみると思いの他使い勝手が悪く、自分のためにやるのならいっそアナログに戻ってしまおうかという気にだんだんなってきている。

旅の個人ジャーナルを紙媒体で作るように複数の友人から勧められてて、自分もちょっと面白いかなとも思ってるのだが、さて、そちらの方もどうしたものか。

Tuesday, March 10, 2015

明日であれから4年

旅行中、日本であれほど騒がれていた「エボラ出血熱」や「イスラム国」についての報道と国民の関心はどこへ行ってしまったのだろう?
伝染病のアウトブレイクもテロリズムによる世界の「イスラエル化」も、市場原理主義が民主主義に優先される現代社会への警鐘なのに、そのことをわれわれはちっとも議論を深化できていない。日本国民は原発事故で多くの代償を払いそこから多くのことを学べたはずなのに。明日であれから4年、棄てられたままになっているのは「被災地」だけではなく、われわれの「良心」なのではないか。
The Great East Japan Earthquake in Kesennuma
https://plus.google.com/11071056538415798…/posts/VJXqF9UuzA3

Sunday, March 08, 2015

旅の終わりに

羽田空港に深夜到着し都内に一泊した。翌日、パスポート・センターで旅券の切り替え申請を行い、書店で『ジェロニモたちの方舟』、『辺境のフォークロア』を購入。昼食は親子丼。

電車で半島を南下。河津桜が満開の終点で降りバスに乗り換える。一足先にかすかに車内に潮の香りを感じる。斜め前の座席に外国人の二人連れが座っている。一人は白人の男性でもう一人は黒人の女性だ。これまでの旅の生活ではごくありふれた光景だが、旅はすでに終了したはずではなかったのか。

前に立つ高校生に彼らが何かを訊ねているが、その高校生は英語が苦手らしい。立ち上がり彼らに声をかける。彼らが行きたい場所はこれから僕が帰る場所だった。このバスは港のひとつ手前のバス停までだから、僕が港まで案内すると伝えた。

バスを降り坂道を彼らと歩く。彼はジム、彼女はステラといった。彼らはボストンに暮らしていて、東京に観光に来ていた。おいしいマグロを食べたくてこの町まで足を伸ばしたらしい。

「あなたはこの町で何をしてるの?」そう彼女に質問され、僕は医師だと答えた。彼女は少し驚いた顔をし、「私もそう」と言った。

旅の終わりに、別の旅人に自分の暮らす町を案内する。その人物は自分と同じ職業についている。ひとつの旅は別の旅へと引き継がれる。「ステラ」とは「星」という意味だ。

再開発予定地のセパタクロー

再開発予定地のセパタクロー:
http://youtu.be/f1q7lr5Sdfg

Saturday, March 07, 2015

旅の終わり

羽田空港に深夜到着し都内に一泊した。翌日、パスポート・センターで旅券の切り替え申請を行い、書店で『ジェロニモたちの方舟』、『辺境のフォークロア』を購入。昼食は親子丼。

電車で半島を南下。河津桜が満開の終点で降りバスに乗り換える。一足先にかすかに車内に潮の香りを感じる。斜め前の座席に外国人の二人連れが座っている。一人は白人の男性でもう一人は黒人の女性だ。これまでの旅の生活ではごくありふれた光景だが、旅はすでに終了したはずではなかったのか。

前に立つ高校生に彼らが何かを訊ねているが、その高校生は英語が苦手らしい。立ち上がり彼らに声をかける。彼らが行きたい場所はこれから僕が帰る場所だった。このバスは港のひとつ手前のバス停までだから、僕が港まで案内すると伝えた。

バスを降り坂道を彼らと歩く。彼はジム、彼女はステラといった。彼らはボストンに暮らしていて、東京に観光に来ていた。おいしいマグロを食べたくてこの町まで足を伸ばしてきたたらしい。

「あなたはこの町で何をしてるの?」そう彼女に質問され、僕は医師だと答えた。彼女は少し驚いた顔をし、「私もそう」と言った。

旅の終わりに、別の旅人に自分の暮らす町を案内する。その人物は自分と同じ職業についている。ひとつの旅は別の旅へと引き継がれる。「ステラ」とは「星」という意味だ。

Thursday, March 05, 2015

マレーシア、クアラルンプール国際空港

いまマレーシア・クアラルンプールの空港で日本へ帰国する飛行機の搭乗時間を待っている。
ロビーに旅で訪れた国や町へ向かう便の搭乗アナウンスが流れると、その瞬間に訪ねた土地の記憶や思い出が鮮やかに甦り、その飛行機に乗り込んでもう一度自分もそこへ戻ってしまいたくなる。まだ訪ねていない国や町のアナウンスがあるとその見知らぬ土地への憧憬が胸一杯に膨らむ。
自由な僕はその気になれば、このまま旅を続けることももちろんできるが、それはしがらみというよりも僕を繋ぎ止めてくれるものが少ないからだとも言える。そういった意味では自由とはさびしさと裏腹だ。
しかしそこに愛がないかと言えばそうではない。親しい人たちを大切に思うこととその人から離れて旅に出ることとは決して矛盾しないと僕は信じている。
今回の旅の途中、インドネシアのジャカルタで出会ったUlanは、深夜の路地裏でそのことについて歌っていた。彼女は今日もどこかで歌っているのだろうか。三崎のみんなは僕の一時帰国を喜んでくれるだろうか。