Sunday, April 19, 2015

「まにら新聞」に見るフィリピン その5

フィリピンでの教訓

・通りは注意して渡りましょう。
・たとえ気のおけない間柄でも酔っぱらいの喧嘩はほっておきましょう。


「まにら新聞」に見るフィリピン その4

・ミンダナオはやはり危険です。

たぶん町長一族ってのもかなり悪い奴らなんじゃないかと僕は思うけどね。

「まにら新聞」に見るフィリピン その3




・優しさの裏には下心あり。

ガンマヒドロキシ酪酸塩

アルコールまたはケタミン中毒に類似した中毒を引き起こし,特にアルコールと併用すると呼吸抑制および死につながることがある。

ガンマヒドロキシ酪酸塩(GHB,または“G”)は経口使用される。GHBはケタミンに似た効果をもつが,より長く持続し,はるかに危険である。

GHBはリラックスした静穏な感覚をもたらす。GHBは疲労と脱抑制をもたらすこともある。高用量では,めまい,協調運動障害,悪心,および嘔吐を引き起こすことがある。発作および昏睡も起こることがあり,呼吸不全や死に至る可能性がある。GHBと他の鎮静薬,特にアルコールを併用するのはきわめて危険である。死亡例のほとんどは,GHBをアルコールと併用した場合に起こっている。

頻回使用後に数日間GHBを使用しないと,離脱症状が生じる。

治療は過量投与の場合にのみ必要である。呼吸が障害されている場合は,人工呼吸器が必要な場合がある。大部分は急速に回復するが,作用は1〜2時間消失しない。


「まにら新聞」に見るフィリピン その2

・フィリピンで喧嘩をするときは、相手が拳銃を持っているつもりでかかりましょう。自分が喧嘩してないときも流れ弾には気をつけましょう。

「まにら新聞」に見るフィリピン その1

・屋台メシは地元の評判を頼りに店を選ぶこと。 行事のふるまいメシも要注意。それでもあたるときはあたる、その覚悟をもって。



「まにら新聞」



フィリピンには日刊の日本語の新聞がある。

ちょっと目を通しただけでも下手なガイドブックより勉強になる。

フィリピンで「電気」を盗むと…



盗みを働くにもいろいろあるだろうが、彼らは「電気」を盗みました。その罰として一人あたり新聞紙面1/4ページで、顔写真、名前、住所を記載した見せしめの公開謝罪広告! こうして電力会社は犯罪抑制に努めます。

それにしてもこの広告を掲載している新聞の名前がFREE MANというのが滑稽だ。

ジープニーに乗って



こういう光景に出くわすと、どこに行くのかも知れないそのジープニーに飛び乗りたくなる。

つくづく男とは単純な生き物だ。

Saturday, April 18, 2015

マニラからセブへ移動



4月18日、ゲストハウスをチェックアウトし高架鉄道のQurino駅まで歩きBaclaran駅へ移動。そこから空港までさらに徒歩。荷物が小さいから満員電車にも乗れ徒歩もさほど気にならない。タクシーなら400ペソのところを15ペソで到着。40円也。

マニラの空港はターミナルの建物が4つに別れていてとても人口の1割を海外へ送り出している国の国際空港とは思えない貧弱な設備。チェックインから搭乗までひたすら行列。マニラからセブへ。帰国便がセブ発のための選択。マニラにはまり込んでいたのでミンダナオやネグロス島、レイテ島はまた次の機会に。

セブ島に呼ばれてないことはすでに予感している。それにソロの旅行者にとってリゾート地はそれほど楽しいところではない。ただセブは人口80万都市だし、スペインの入植の入り口となった町だから、リゾート地以外の表情もあるはず。ただ観光に関わる人たちが多くそれが素顔のセブを見つけにくくすることだろう。離れた町や村にそのまま行くという選択肢もあるが、まずはやはり市街へ向かおう

セブの空港からは、ラプラプ市のPusok、マンダウエのParkmallとジープニーを乗り継いでセブ市の中心地Cogon Ramos界隈へ。450ペソの節約。ジープニーに乗せてもらうには膝における今の荷物のサイズが限界。

新築のホテルがで2500円ぐらいだったので、ドミトリーでなくそこにチェックイン。いつものようにひたすら歩いて市街を散策。いまひとつピタッと来ない。治安の悪さは昼間はマニラと同じくらいか?でも、街路灯が貧弱で夜はマニラより危ない印象。特にCarbon MarketからPasilとMango Streetはかなり危ない。その分、物語の数が多そうで引寄せられる。ショッピングモールはどこも同じで退屈だ。でもマンウォッチングに気持ちを切り換えれば楽しめる。

4月19日、リゾート見学。マクタン島の海岸はほとんどプライベートビーチで入場料は1000から2000ペソ、だいたい2500から5000円ぐらい。立ち寄っただけでそのまま後にする。セブはダイビングか離島ビーチへ行かないと海は楽しめなさそう。 ボートでパンダノン島、ナルスアン島とかへアイランドホッピングすれば簡単に極上ビーチにたどり着けるが、お金を落とすそれもまたもうひとつのプライベート・ビーチだ

で時間がなかったり、旅に不馴れな人たちは空港に近いホテルのビーチで「リゾート」を楽しんでる。リゾートホテルの横には語学学校があった。20代ぐらいの日本人、韓国人が多い。

Portfino Beach、Vano Beachはマクタン島の数少ないパブリック・ビーチ。地元の人で賑わっていてそれはそれで味わい深いものがある。きれいかきれいでないかというとプライベート・ビーチには当然劣る。

お金が演出する旅に免疫ができてしまうと観光地では楽しめなくなってしまうということを再認識。日本の物価やここまで来る旅費を考えれば、そういうナイーヴさというのは実はあまり意味がないのかもしれない。どこかのクレジットカード会社のCMで「思い出はプライスレス」とか言っていたのを思い出す。

友人からジンベイザメと泳げるツアーやメガネザルに会えるツアー薦めてもらったけれど、ジンベイザメはかなり惹かれるものがある。たぶんそれは「海は獣の子供」という漫画の影響。

働いてお金稼いで旅で使っていろいろな経験しリフレッシュして、また頑張って働いて旅に出る…。これは良くできた循環だ。とりあえずその循環の外へは出た。でもその次は?

Friday, April 17, 2015

SMモール・オブ・アジア

現代のフィリピンやマニラを紹介するにあたって、個人的な好き嫌いは別にして、どうしてもはずせないのがショッピングモールだ。
だいたい今はバスターミナルやジープニーターミナルがモールに併設されていることが多いから そこそこ人口のある地方都市のどこを旅してもショッピングモールを避けることはできない。
それにしてもこのマニラの「SMモール・オブ・アジア」は半端ない規模だ。どうしても手に入れたい本があって訪問したが、モールに入っているテナントの数がなんと1300! 仮に移動も含めて一店舗あたり30秒でざっと見るだけでも、650分、つまり11時間近くかかる計算である。
帰り際見上げると最上階を増築中で、さらに店舗数を増やす計画らしい。これは、いかにマニラに暮らすフィリピン人がいま消費に夢中かということの表れだと思うが、増やしてやっていけるということはそれだけに市民の生活レベルが向上しているということなのだろう。本当に欲望というのはきりがないものだとつくづく思い知らされる。

その土地で生きるということ

以前も書いたことだが、旅をしていて、もし医師としてではなくたどり着いたその土地で根を張って生きていかなくてはならなくなったらどうするだろう? よくそう自問する。

あれこれ考えるが、そう簡単な答えが見つかるはずもない。そしてつくづく元手がある程度ないとお金というのは稼ぐのが大変だと実感する。

お菓子やピーナッツ、バラの煙草を売るのがたぶん一番元手のかからない商売だろうけど、どれだけ頑張ったところで一日のあがりはしれてる。女性が立ちんぼで「客」を取るのも元手はかからないけど、いろんなリスクがつきまとう。

少し元手があれば焼き鳥やバナナの揚げたのを屋台で売ったり、トライシクルで乗客を運んだりするという方法もあるだろう。さらに食堂や雑貨屋、安宿、塾ぐらいまで来るとその等級が色々分かれて行き果てはチェーン店やホテル・グループ、私学となりもうこれは一大企業である。

自分で商売を起こさずとも自分の労働を売るという方法もある。何かしら特技があればその分高く労働を売れるが、誰でもできる単純労働は賃金が安く、仕事が簡単なわりに賃金がよい仕事は競争が激しい。

要するにものすごく画期的なアイディアを思いつくか、さもなくば少しずつステップアップしていくしか方法はないという結論になるのだが、お金がなければ、残る頼りは「教育」と「健康」だ。

フィリピンでは大学というものが雨後の筍の如く乱立していて、高校を卒業したぐらいではなかなか仕事を得ることはできない。たとえ大学を卒業していてもキャリアアップの為に仕事をしながら学校に通っているというのもざらだ。

健康については国民の平均年齢が23.4歳なので若くて健康なことは特別のセールスポイントにはならず、むしろ最低用件という感じだろうか。(未完)

フィリピンのソウルフード アドボ




鶏肉や豚肉を醤油とお酢で煮込んだもの。フィリピンのソウルフードだ。

ニック・ホアキン


マニラ市街戦から70年を経たマニラ市イントラムロスを散策していて、1995年2月に建立された祈念碑「メモラーレ・マニラ 1945」を見つけた。

その祈念碑にはこのような文章が英語で記されていた。

「罪なき戦争犠牲者の多くは名も分からず、人知れず共同墓地に葬られた。火に焼かれた肉体が廃虚の灰と化し、墓すらない犠牲者もいた。この碑をマニラ解放戦で殺された10万人を超える男と女、子供、幼児それぞれの、そしてすべての墓石としよう。われわれは彼らを忘れておらず、永遠に忘れはしない。彼らが、われらの愛するマニラの神聖な土となり、安らがんことを願う」

日本を名指しで避難することをせず、死者への悼みと未来への強い意志を誓ったこの美しい文章を紡ぎ出したのはいったい誰なのだろう? それがイントラムロスを訪ねたあともずっと気になり、やがてこの文章がフィリピンの国民的作家ニック・ホアキンのものであることを知った。

ニック・ホアキン  Nicomedes Márquez Joaquín
1917年5月7日、フィリピン・マニラのパコ地区に生まれる。父親は英語、スペイン語の教師。幼少より母親に詩や物語を読み聞かされて育ち、やがて父親の書斎や国立図書館にに入りびたった。高校中退後、国立図書館で勉学に励むかたわら、マニラで港湾労働をし数々の臨時の仕事をこなし、その後「フリー・プレス」誌の校正の仕事を得、17歳の時から短編小説とルポを英語で発表。生涯に英語とスペイン語の60以上の著作を上梓した。2004年4月29日、サン・ファンにて没。

その彼の著作のひとつの Manila, My Manila: A History for the Young (1990)が読みたくてマニラ市内の書店を探し回った。いくつかの大きなショッピングモール内の書店ではどこにも在庫がなく、古本屋Secondhand Bookstoreをリストアップしてマニラ市内を歩き回る。

1945年2月のマニラ市街戦は、徹底抗戦の構えの日本軍の作戦により完全な焦土と化した。多くの一般市民がこの戦闘に巻き込まれ犠牲となった。その記憶を留めるものはあの祈念碑以外どこにも見当たらなかったが、逆にどの路地を歩いてもホアキンの碑文に記された言葉が僕の中でずっと反芻され、思いがけずホアキンに導かれ、普通にしていたら決して気づくことのない歴史の上に堆積したさまざまな表情のマニラ市街を一日中さ迷い歩くこととなった。

Thursday, April 16, 2015

マニラ、マテラ地区のスラム



マニラ市マラテMalate地区の北半分は歓楽街、南半分はスラム街だ。僕の泊まっているゲストハウスはこのちょうど中間にある。政府が作ったロータリーの公園周辺は日が落ちて涼しくなるとスラムの子供たちが集まってくる。
子供たちにとって世界はこの数ブロックで、どの家も同じように貧しいから特に自分が貧しいとかいう自覚もなく、毎日そのおかれた環境のなかで楽しんで生きている。
夕方、この公園のベンチに座って彼らを眺めていると、心がなんだかほっこりしてくる。

Wednesday, April 15, 2015

サン・ミゲルと日本人町


毎晩のように僕がお世話になっているそこそこお気に入りのフィリピンのビールは、日本円で100円するかしないかの「サン・ミゲル」という銘柄だ。その 「サン・ミゲル」と同じ名前の日本人町が かつてマニラのディラオDilaw地区にあったらしいことを最近になって知った。

かつてとはどれくらい前かというと、調べたところによるとそれは16世紀後半。イエズス会の日本でのキリスト教の布教が開始されてからわずか数十年後に豊臣秀吉のキリスト教弾圧が始まり、その時期、キリスト教に改宗した多くの侍が迫害を逃れこの土地にやって来たのであるらしい。 その数は16世紀後半でおよそ500人あまりに及んだ。

当時「ニッポニーズ」と呼ばれていた日本人町に「サン・ミゲル」という名前がつけられたのは、彼の地に移住してきた日本人の多くが、商人でも農民でもない武士たちで、キリスト教の守護聖人の中で彼らに人気があったのが戦闘の剣を手にする大天使聖ミカエル、つまり「サン・ミゲル」であったからだという。 (ついでに付け加えておくと、あのジャンヌ・ダルクに啓示を与えたと言われているのも大天使聖ミカエルである)

現在のフィリピンのマニラを歩いていて目につく日本人旅行者の集まる日本料理屋やカラオケバー、風俗店、観光地は言うに及ばず、70年前の第二次世界大戦の歴史、さらには18世紀後半から19世紀前半の戦前日系人社会の歴史を、イメージの翼をひろげて大きく飛び越え、スペイン植民地時代のこの土地でスペイン語を話す日本の侍たちの数奇な人生に想いを馳せ「サン・ミゲル」をあおりつつマニラの夜を一人過ごしている。

Tuesday, April 14, 2015

フィリピンと日本の人口推移


いろいろ考えさせられることの多いのフィリピンと日本の人口推移の表だ。

lechon manok


鶏の丸焼き lechon manokは180ペソ、480円ぐらい。

『恋愛のディスクール』



旅行者の僕にとってマニラの良いところのひとつは、その英語環境がしっかりしていることだ。

たとえばマニラなら、ふとロラン・バルトの『恋愛のディスクール』の一節が気になっても、それなりの本屋に行けば、立ち読みでその部分を確認できる。もっともバルトは英語も翻訳だし、バンコクなら日本語で読めるのかもしれないけれど。

「わたしがあの人を愛しているのは、あの人の属性(記帳された)のせいではなく、あの人の存在のせいなのだ」

「恋するわたしは狂っている。そう言えるわたしは狂っていない。わたしは自分のイメージを二分しているのだ。自分の眼にわたしは気のふれたものと映る(わたしは自分の錯乱のなんたるかを識っている)のだが、他人の眼にはただ変っているだけと映るだろう。わたしが自分の狂気をいたって正気に物語っているからだ。わたしはたえずこの狂気を意識し、それについてのディスクールを維持しつづけている」

ここにある「あの人」をあるいは「異国」に、「恋する」を「旅する」に置き換えてみることもできるかもしれない

「旅」 を語ることの難しさ 、それから自分の「狂気」について考えてます。

Monday, March 30, 2015

Baby Back Ribs

フィリピンに行ったらぜひトライすべし! とある敬愛する人物から薦められていた Baby Back Ribsをマニラ滞在3日目にようやく食しました。
ナイフはほとんど要らず、フォークでほろほろと肉がほぐれ取れてきて、 ソースの漬かり具合もよく 脂っこすぎることなく大変美味でした。