Wednesday, October 21, 2015

記憶殺し

再建されたボスニア国立図書館。その美しさは蘇ったが、建物の部屋はどれもがらんどうで蔵書はない。ゴイティソーロのいうこれが「記憶殺し」だ。

ヨーロッパ

「ヨーロッパ」という名前が、ボスニア紛争の避難民の宿舎になったホテルに冠せられているのは、果たして偶然だろうか。
・ヨーロッパ
エウローペーは、テュロスのフェニキア王アゲーノールとテーレパッサの娘で、美しい姫であった。エウローペーに一目ぼれしたゼウスは誘惑するために、自身を白い牡牛に変える。エウローペーが侍女と花を摘んでいる時に、白い牡牛を見つけその背にまたがると、その途端白い牡牛はエウローペーをクレータ島へと連れ去った。そこでゼウスは本来の姿をあらわし、エウローペーはクレータで最初の妃となった。連れ去る際にヨーロッパ中を駆け回ったため、その地域はエウローペーの名前から「ヨーロッパ」 (Europa) と呼ばれるようになった。

UN

時として落書きにこそ真理が宿る。

Sunday, May 03, 2015

夜光虫


忙しく観光客が帰路につき昼間の喧噪が嘘のように静けさを取り戻した三崎の海。小さな潮溜まりにこんな美しい世界があることを、皆に教えてあげたいような、秘密にしておきたいような....

三崎のGW

5月3日、三崎は連休を楽しむ人たちで賑やかだ。魚店「まるいち」はご覧のとおり、美味しい地魚を食べに次から次からお客さんがやって来て大繁盛。純くん、ノンちゃんもこの連休に合わせて助っ人に帰ってきて、通りに懐かしい呼び込みの声が響きわたる。作家のいしいしんじさんも久しぶりにご家族で登場した。4歳半のいしいさんのお子さん、ひとひ君もお店をお手伝い。宣さんの包丁さばきも健在。ゴムノキがやさしく皆を見守っている。

Monday, April 27, 2015

俺たちの時代


帰国後、『大岡昇平集』を読み漁っている。

大岡昇平は、太平洋戦争末期1944年、35歳で召集を受け、フィリピン・ミンドロ島でアメリカ軍の捕虜になった。その時の体験から戦後『野火』など数多くの作品発表している。その彼の書いたものは高校や大学の頃いくつか読んでいたが、実際に自分がフィリピンを旅してから今回改めて読み直してみると、たったいまフィリピンの日本人捕虜収容所から生還したばかりの人物から直接その体験談を聞いているように70年の時間が経過した今でも感じられる。

今月、村上春樹が、共同通信のインタビューで太平洋戦争について、日本は相手国が納得するまで謝罪を続けるべきという趣旨の発言をし、それに対し中国・韓国からは賛辞が、日本国内からは批判が噴出しているらしいことを最近知った。

確かに批判のための批判のような中国や韓国の対日批判については僕自身正直うんざりしているし、旅行中もそういう攻撃的な態度の中国人、韓国人旅行者と出会って辟易したことがあったのも事実だ。

しかし、よく彼らの話を聞いてみるとそうした彼らの発言の元になっている知識というのは、我々日本人が知っているそれと大きく解離していて、事実が歪曲、強調されているものも少なくはないが、それよりも圧倒的に僕らの側に知識が欠如している、あるいは日本国内で流通している加工された情報に依拠していることが痛感させられる。

その根っこには、我々自身もまた戦争の被害者であり、そこから今日まで頑張って復興を遂げ、国を作り直してきたというそのプライドがあるのだと思う。だから、70年も前のことを持ち出してついこの間起きたことのように話を蒸し返されてもという意識があるのだろう。

しかし、それは正しい態度であろうか? 先の戦争については日本はどこまで行ってもやはり「加害者」なのだ。そして、中国、韓国、それから東南アジアのや太平洋の国々は「被害者」なのだ。そのことはリテラシーを持って自ら主体的に歴史を学べば、あるいは日本が占領した国々を訪ねれば、誰もが気づく。そして明らかに日本は戦後教育のなかでそうした学びの機会から意国民を意図的に遠ざけてきたことも併せて自覚される。

ヤクザに因縁をつけられたような意識で感情的になる前に、あの時いったい何が起きていたのか学ぶ努力をすることそれが大切な気がする。そしてさらに言えば、謝罪というのはそれをする側がすでに済んだと思っていても、それを受ける側が納得するまでは完了しないことを我々は自覚しなければならない。それはけっして愉快なことではないけれど、その咎を受けるだけのことを日本はしてしまったのだ。それはもう70年以上も前の話で自分にはその責任はないと日本国民全員がそう開き直ったら、被害を受けた側の人々は憎悪を募らせことあるごとに批判的な態度をとるだろうし、忌まわしい歴史を乗り越えて友好関係を築くことなど決して実現しないだろう。はたしてそれが我々の望む日本の将来の姿であろうか。

僕はだから日本人が卑屈にペコペコするべきだと言っているのではない。賠償を追加してお金で解決しろと提言しているわけでもない。終戦時20歳だった人が90歳となる終戦70周年の今年、時間の経過とともに遠い過去の出来事として朧気になっていく事実が一人の人間の寿命の時間の内に収まっていて風化せずまだ残っている。もう一方で70年という時によって初めて得られる冷静さや客観性から獲得できるパースペクティブというものもあるだろう。我々はそういう時に自分たちがいま生きていることを自覚すべきだ。それは過去に囚われていることではなく、いま我々が立っている場所をより深く理解し、それがひいてはこれから我々が向かおうとする未来への指標となると思うと伝えたいのだ。

Wednesday, April 22, 2015

無事、帰国


無事帰国。途中、もし母が屋上で洗濯物を干していたらその姿が確認できるぐらいはっきりと飛行機の窓から自分の家が見えた。

かつての自分のように一人の少年が目を細め眩しそうに飛行機を見上げ未来の自分の旅を夢想している姿を想像する。

帰国の途へ


Tuesday, April 21, 2015

フィリピンの若者たち


アヤラ・センターというショッピングモールに暑気よけに避難。このフィリピン旅行初のスターバックスに入ると隣のテーブルで地元の大学生がグループ学習中だった。

何やら過去問のコピーに蛍光ペンでアンダーラインをひいたり、分厚い教科書をひっくり返したりしている。学生は皆女の子で全部で5名。その瞬間、突然デジャヴュに襲われた。

飽きっぽくてスマホいじり始めたり、友達が勉強している姿を撮影したりして落ち着かない子がいる。お腹がすぐ空いてクッキーを買いに行って勉強を中断する子がいる。何となく全体のリーダー格で友達の質問に答えながら黙々と勉強をつづける子がいる。それらを全部知ってる気がした。それが確信に近い理由のひとつはそのリーダー格の女の子がグループの中で際立って美人で凛としていたからだ。その印象も以前どこかでもったことがある気がした。

ふと彼女たちの使っている教科書に目をやりデジャヴュと感じたものの正体が判明した。その教科書のタイトルはModern Bood Banking & Transfusion Practice、「現代の献血と輸血の臨床」という本で、彼女たちは医学生で定期試験の対策にスタバに集まって一緒に勉強しているのだ。そう言えば、僕たちも以前、こんな風に集まってよく勉強し、その時も今のように戦隊ものの色分けキャラのようにそれぞれに役割や特徴があった。それを僕はデジャヴュと勘違いしたようだ。

フィリピンでは女性の方が男性よりたくましいとよくいわれる。妻が海外に出稼ぎに出て家庭を支えるというのはよくある光景だし、東南アジアに共通の怠け者の男性に対して働き者の女性という構図は、フィリピンにおいてはさらに一歩進んで、女性の自立にとどまらず社会進出という形で日本よりはるかに進んでいる(何せ女性大統領が生まれるくらいだから)。

そういう意味では、その医学生の彼女たちはフィリピン社会においてトップクラスの純然たるエリート予備軍で、その彼女たちの余裕と自信が、 隣のテーブルに座っている埃っぽいシャツに袖を通したサンダル履きの僕の鼻腔をくすぐる。

スラムの街路を歩くときに感じる視線と対照的に富める人たちは他人を無視することがみな上手だ。町中にたむろする貧しい人たち同様、僕の存在もその女子学生たちの視野から排除されているのを感じる。

さっきから彼女たちは輸血の拒絶反応のメカニズムに対して多少混乱した理解の議論をしているのだが、その正解を僕が知っているとは彼女たちは想像だにしていない。教えてあげるタイミングを見つけられないまま、その彼女たちが学生のうちからその優秀さゆえに未来の仕事で向かい合う普通の人々から知らず知らずのうちに隔絶していくことについて考えを巡らす。

エアコンのよく効いたアメリカのオールディーズのBGMが流れる快適な店内で、フラペチーノを啜りながら勉強することが悪いと言いたいわけではない。第一それはすでに僕自身が学生時代に経験してきたことだ。

しかし、与えられる課題を次々クリアし上へ上へとひたむきに登りつめ、その結果たどり着ける場所が自分自身と同じくらい他人も幸せるする場所とは限らないということを、まだ若い彼女たちは気づいていないように僕には見える。

貧困に伴う医療問題を本気で解決しようとするなら、医師になろうとする者の動機づけとその育成方法についてもっと議論を重ねた方がいいのではないかと思わずにはいられない。輸血の拒絶反応と格差社会の拒絶反応とが思いがけず繋がった不思議な時間だった。

現代アート

いまひとつよく意味がわからないが芸術性は高いと思う。「それでいいのか!?」というのがまさしく僕の現代アートに対する疑問ではあるのだけど。

レチョン(豚の丸焼き)


バリでは「バビ・グリン」と呼ばれよく食べていた豚の丸焼き、バリを離れてからそのほかのインドネシアの土地やマレーシアではイスラム教の戒律があるためほとんど食べる機会がなかった。そう言えばタイでも「ムーハン」というのがあること知ってたが食べなかった。

しかしここフィリピンでは豚の丸焼きは「レチョン」と呼ばれていてとてもポピュラー。なかでもセブはレチョンが国内でも特によく食べられる地域らしく至るところにレチョン屋がある。豚の脂の乗り具合や詰め物、塩加減がそれぞれ微妙に違っていて、あまり期待せず入った場末の食堂で出すレチョンがちょっとビックリするぐらいうまかったりする。だいたい一皿日本円で300円ぐらい。Hanging Riceとともに。

Monday, April 20, 2015

マネーゲーム



この期に及んで「日本がどう、それに引きかえフィリピンがどう」という気もない。
マネーゲームの国別対抗戦は終焉し、世界規模で遠大な個人戦が始まったということなのだろう。

カジノのCM

マーチン・スコセッシ監督の新作City of Dreams Manilaは レオナルド・ディカプリオ、ロバート・デ・ニーロの二大ハリウッドスター共演という豪華なキャスティングで制作費7億ドルをかけた豪華なマニラのカジノのTVコマーシャル。

3人とも好きな監督や俳優だったので残念。

最初にこの文章を投稿した時は、そのYou Tube動画をシェアしてあったのだが、Facebookからブログへ移そうとしたら削除されていた。調べてみると、そのことは内外であれこれ推測を呼んでいるらしい。要するに、出演料が一人1000万ドルというオファーでフィリピンでだけだったらいいアルバイトぐらいに思って出演してみたらフィリピン以外の国でもそれらが視聴され、慌てて削除したという所らしい。

今どきの安宿




あと2日のフィリピン滞在をどこでするか考え、リゾート地ではなくセブ市市街で過ごすことにした。泊まるホテルについては、手持ちのペソがまだ多めに手元にあるし、多少張り込んだところでバチは当たらない、3日後にはすでに日本の金銭感覚に戻されるわけだしなどと考えていた。なのに選んだのがこの宿、1泊650円。偶然インターネットで見つけ節約よりも好奇心が抑えきれず予約してしまった。

どうやらオーナーは中国人とハーフのフィリピンらしい。日本の研修センターとカプセルホテルとマンガ喫茶を足して3で割ったような感じ。広いフロアに3つぐらいの部屋があり、その各部屋にパーティションで区切られた2段ベッドの8人部屋が延々とつづく。間違いなくそのベッド数は300をこえるだろう。

しかし入り口のフロント、各セクションのセキュリティーガードで安全は万全、清掃も行き届いており、スタッフの教育も良くできている。共有スペースのラウンジには80型以上あろうかという液晶テレビが鎮座し24時間映画観放題、デスクトップコンピュータも2台設置されていて、wifiは共有スペースだけでなく各ベッドでもよく繋がる。

寝具やタオルの貸し出しは有料。荷物の預かりサービスも有料だが、それらを足しても他のゲストハウスよりきっと安いだろう。

これだけでも十分すごいと思うが、さらに驚かされたたことに、このゲストハウス、30日前までの予約だと1泊がなんと99ペソだという。99ペソといったら日本円でわずか265円だ!! この価格破壊はいくらフィリピンといえども半端じゃない。

ここに宿をとり仮に1ヶ月セブに滞在したとしてもその宿泊費はわずか8千円だ。セブパシフィックの格安チケットで2万円しないだろうから。食費抜きで3万円で1ヶ月も海外旅行ができるということになる。

古くてサービスの悪いホテルだけが値段が安い時代から、生き残りをかけニーズに合わせてホテルが細分化して進化する。 低価格化が、 高級化やスタンダード化と競うひとつの極端な戦略として生まれたのは理解できる。しかし、ちょっと日本ではここまで安いというのはまずお目にかかれないのではないか。これが数年後世界中に普及するのかまずは見守りたい。

『港、モンテビデオ』が遂に刊行されるらしい

「いしいしんじのごはん日記」抜粋

2015年04月08日(水)
下におり、新潮の矢野さん、河出の尾形さんと電話。大竹さんに少し長いEメールを書く。即刻返信あり。その侠気に涙。
2015年04月10日(金)
ずっと雨。2011年に停まった小説「港、モンテビデオ」が動きだした。宣さんが引っぱってくれたのだ。大竹さん、尾形さんに電話。今年はほんとうに、おもってもみない勢いで本が出る。春に出た「ある一年」のあと、今月末に「いしいしんじの音ぐらし」、6月に「悪声」、8月か9月に「港、モンテビデオ」、おそらく同時期に「しゃざきっさ」、秋になったら新潮に発表している小説群をまとめた一冊が。小説が多いのがうれしい。
ついに、幻の『港、モンテビデオ』が刊行される! 小説の舞台は三浦三崎、主人公は実在する魚店「まるいち」の大将「宣さん」こと松本宣之さん、その妻の美智世さん、美智世さんの父マグロ漁師のクロさん、三崎の住人作家の慎二…。
すべての三崎を愛する人、必読の一冊です。

フィリピンから日本への帰り方

今回フィリピン単独で旅を計画し、入国するためには出国の航空券が必要ということで、就航したばかりのセブから名古屋へのチケットを用意した。でも本当は、ルソン島北部から台湾、そして与那国島への船旅で台湾、沖縄と経由して帰るのが正しい選択だった。
しかしこのコースの定期船の就航は現実にはないし、フィリピン-沖縄のフライトもないので諦めてしまっていたのだが、飛行機なら台湾へまず飛んでそれから那覇へなら飛べることに後になって気がついた。なんとも惜しい。帰りのチケット捨てて今からでも変更しようか。

Sunday, April 19, 2015

「まにら新聞」に見るフィリピン その6

・ビジネスチャンスはいまや中国よりもフィリピン
・ただし不法就労は犯罪です。


「まにら新聞」に見るフィリピン その5

フィリピンでの教訓

・通りは注意して渡りましょう。
・たとえ気のおけない間柄でも酔っぱらいの喧嘩はほっておきましょう。


「まにら新聞」に見るフィリピン その4

・ミンダナオはやはり危険です。

たぶん町長一族ってのもかなり悪い奴らなんじゃないかと僕は思うけどね。

「まにら新聞」に見るフィリピン その3




・優しさの裏には下心あり。

ガンマヒドロキシ酪酸塩

アルコールまたはケタミン中毒に類似した中毒を引き起こし,特にアルコールと併用すると呼吸抑制および死につながることがある。

ガンマヒドロキシ酪酸塩(GHB,または“G”)は経口使用される。GHBはケタミンに似た効果をもつが,より長く持続し,はるかに危険である。

GHBはリラックスした静穏な感覚をもたらす。GHBは疲労と脱抑制をもたらすこともある。高用量では,めまい,協調運動障害,悪心,および嘔吐を引き起こすことがある。発作および昏睡も起こることがあり,呼吸不全や死に至る可能性がある。GHBと他の鎮静薬,特にアルコールを併用するのはきわめて危険である。死亡例のほとんどは,GHBをアルコールと併用した場合に起こっている。

頻回使用後に数日間GHBを使用しないと,離脱症状が生じる。

治療は過量投与の場合にのみ必要である。呼吸が障害されている場合は,人工呼吸器が必要な場合がある。大部分は急速に回復するが,作用は1〜2時間消失しない。


「まにら新聞」に見るフィリピン その2

・フィリピンで喧嘩をするときは、相手が拳銃を持っているつもりでかかりましょう。自分が喧嘩してないときも流れ弾には気をつけましょう。

「まにら新聞」に見るフィリピン その1

・屋台メシは地元の評判を頼りに店を選ぶこと。 行事のふるまいメシも要注意。それでもあたるときはあたる、その覚悟をもって。



「まにら新聞」



フィリピンには日刊の日本語の新聞がある。

ちょっと目を通しただけでも下手なガイドブックより勉強になる。

フィリピンで「電気」を盗むと…



盗みを働くにもいろいろあるだろうが、彼らは「電気」を盗みました。その罰として一人あたり新聞紙面1/4ページで、顔写真、名前、住所を記載した見せしめの公開謝罪広告! こうして電力会社は犯罪抑制に努めます。

それにしてもこの広告を掲載している新聞の名前がFREE MANというのが滑稽だ。

ジープニーに乗って



こういう光景に出くわすと、どこに行くのかも知れないそのジープニーに飛び乗りたくなる。

つくづく男とは単純な生き物だ。

Saturday, April 18, 2015

マニラからセブへ移動



4月18日、ゲストハウスをチェックアウトし高架鉄道のQurino駅まで歩きBaclaran駅へ移動。そこから空港までさらに徒歩。荷物が小さいから満員電車にも乗れ徒歩もさほど気にならない。タクシーなら400ペソのところを15ペソで到着。40円也。

マニラの空港はターミナルの建物が4つに別れていてとても人口の1割を海外へ送り出している国の国際空港とは思えない貧弱な設備。チェックインから搭乗までひたすら行列。マニラからセブへ。帰国便がセブ発のための選択。マニラにはまり込んでいたのでミンダナオやネグロス島、レイテ島はまた次の機会に。

セブ島に呼ばれてないことはすでに予感している。それにソロの旅行者にとってリゾート地はそれほど楽しいところではない。ただセブは人口80万都市だし、スペインの入植の入り口となった町だから、リゾート地以外の表情もあるはず。ただ観光に関わる人たちが多くそれが素顔のセブを見つけにくくすることだろう。離れた町や村にそのまま行くという選択肢もあるが、まずはやはり市街へ向かおう

セブの空港からは、ラプラプ市のPusok、マンダウエのParkmallとジープニーを乗り継いでセブ市の中心地Cogon Ramos界隈へ。450ペソの節約。ジープニーに乗せてもらうには膝における今の荷物のサイズが限界。

新築のホテルがで2500円ぐらいだったので、ドミトリーでなくそこにチェックイン。いつものようにひたすら歩いて市街を散策。いまひとつピタッと来ない。治安の悪さは昼間はマニラと同じくらいか?でも、街路灯が貧弱で夜はマニラより危ない印象。特にCarbon MarketからPasilとMango Streetはかなり危ない。その分、物語の数が多そうで引寄せられる。ショッピングモールはどこも同じで退屈だ。でもマンウォッチングに気持ちを切り換えれば楽しめる。

4月19日、リゾート見学。マクタン島の海岸はほとんどプライベートビーチで入場料は1000から2000ペソ、だいたい2500から5000円ぐらい。立ち寄っただけでそのまま後にする。セブはダイビングか離島ビーチへ行かないと海は楽しめなさそう。 ボートでパンダノン島、ナルスアン島とかへアイランドホッピングすれば簡単に極上ビーチにたどり着けるが、お金を落とすそれもまたもうひとつのプライベート・ビーチだ

で時間がなかったり、旅に不馴れな人たちは空港に近いホテルのビーチで「リゾート」を楽しんでる。リゾートホテルの横には語学学校があった。20代ぐらいの日本人、韓国人が多い。

Portfino Beach、Vano Beachはマクタン島の数少ないパブリック・ビーチ。地元の人で賑わっていてそれはそれで味わい深いものがある。きれいかきれいでないかというとプライベート・ビーチには当然劣る。

お金が演出する旅に免疫ができてしまうと観光地では楽しめなくなってしまうということを再認識。日本の物価やここまで来る旅費を考えれば、そういうナイーヴさというのは実はあまり意味がないのかもしれない。どこかのクレジットカード会社のCMで「思い出はプライスレス」とか言っていたのを思い出す。

友人からジンベイザメと泳げるツアーやメガネザルに会えるツアー薦めてもらったけれど、ジンベイザメはかなり惹かれるものがある。たぶんそれは「海は獣の子供」という漫画の影響。

働いてお金稼いで旅で使っていろいろな経験しリフレッシュして、また頑張って働いて旅に出る…。これは良くできた循環だ。とりあえずその循環の外へは出た。でもその次は?

Friday, April 17, 2015

SMモール・オブ・アジア

現代のフィリピンやマニラを紹介するにあたって、個人的な好き嫌いは別にして、どうしてもはずせないのがショッピングモールだ。
だいたい今はバスターミナルやジープニーターミナルがモールに併設されていることが多いから そこそこ人口のある地方都市のどこを旅してもショッピングモールを避けることはできない。
それにしてもこのマニラの「SMモール・オブ・アジア」は半端ない規模だ。どうしても手に入れたい本があって訪問したが、モールに入っているテナントの数がなんと1300! 仮に移動も含めて一店舗あたり30秒でざっと見るだけでも、650分、つまり11時間近くかかる計算である。
帰り際見上げると最上階を増築中で、さらに店舗数を増やす計画らしい。これは、いかにマニラに暮らすフィリピン人がいま消費に夢中かということの表れだと思うが、増やしてやっていけるということはそれだけに市民の生活レベルが向上しているということなのだろう。本当に欲望というのはきりがないものだとつくづく思い知らされる。

その土地で生きるということ

以前も書いたことだが、旅をしていて、もし医師としてではなくたどり着いたその土地で根を張って生きていかなくてはならなくなったらどうするだろう? よくそう自問する。

あれこれ考えるが、そう簡単な答えが見つかるはずもない。そしてつくづく元手がある程度ないとお金というのは稼ぐのが大変だと実感する。

お菓子やピーナッツ、バラの煙草を売るのがたぶん一番元手のかからない商売だろうけど、どれだけ頑張ったところで一日のあがりはしれてる。女性が立ちんぼで「客」を取るのも元手はかからないけど、いろんなリスクがつきまとう。

少し元手があれば焼き鳥やバナナの揚げたのを屋台で売ったり、トライシクルで乗客を運んだりするという方法もあるだろう。さらに食堂や雑貨屋、安宿、塾ぐらいまで来るとその等級が色々分かれて行き果てはチェーン店やホテル・グループ、私学となりもうこれは一大企業である。

自分で商売を起こさずとも自分の労働を売るという方法もある。何かしら特技があればその分高く労働を売れるが、誰でもできる単純労働は賃金が安く、仕事が簡単なわりに賃金がよい仕事は競争が激しい。

要するにものすごく画期的なアイディアを思いつくか、さもなくば少しずつステップアップしていくしか方法はないという結論になるのだが、お金がなければ、残る頼りは「教育」と「健康」だ。

フィリピンでは大学というものが雨後の筍の如く乱立していて、高校を卒業したぐらいではなかなか仕事を得ることはできない。たとえ大学を卒業していてもキャリアアップの為に仕事をしながら学校に通っているというのもざらだ。

健康については国民の平均年齢が23.4歳なので若くて健康なことは特別のセールスポイントにはならず、むしろ最低用件という感じだろうか。(未完)

フィリピンのソウルフード アドボ




鶏肉や豚肉を醤油とお酢で煮込んだもの。フィリピンのソウルフードだ。

ニック・ホアキン


マニラ市街戦から70年を経たマニラ市イントラムロスを散策していて、1995年2月に建立された祈念碑「メモラーレ・マニラ 1945」を見つけた。

その祈念碑にはこのような文章が英語で記されていた。

「罪なき戦争犠牲者の多くは名も分からず、人知れず共同墓地に葬られた。火に焼かれた肉体が廃虚の灰と化し、墓すらない犠牲者もいた。この碑をマニラ解放戦で殺された10万人を超える男と女、子供、幼児それぞれの、そしてすべての墓石としよう。われわれは彼らを忘れておらず、永遠に忘れはしない。彼らが、われらの愛するマニラの神聖な土となり、安らがんことを願う」

日本を名指しで避難することをせず、死者への悼みと未来への強い意志を誓ったこの美しい文章を紡ぎ出したのはいったい誰なのだろう? それがイントラムロスを訪ねたあともずっと気になり、やがてこの文章がフィリピンの国民的作家ニック・ホアキンのものであることを知った。

ニック・ホアキン  Nicomedes Márquez Joaquín
1917年5月7日、フィリピン・マニラのパコ地区に生まれる。父親は英語、スペイン語の教師。幼少より母親に詩や物語を読み聞かされて育ち、やがて父親の書斎や国立図書館にに入りびたった。高校中退後、国立図書館で勉学に励むかたわら、マニラで港湾労働をし数々の臨時の仕事をこなし、その後「フリー・プレス」誌の校正の仕事を得、17歳の時から短編小説とルポを英語で発表。生涯に英語とスペイン語の60以上の著作を上梓した。2004年4月29日、サン・ファンにて没。

その彼の著作のひとつの Manila, My Manila: A History for the Young (1990)が読みたくてマニラ市内の書店を探し回った。いくつかの大きなショッピングモール内の書店ではどこにも在庫がなく、古本屋Secondhand Bookstoreをリストアップしてマニラ市内を歩き回る。

1945年2月のマニラ市街戦は、徹底抗戦の構えの日本軍の作戦により完全な焦土と化した。多くの一般市民がこの戦闘に巻き込まれ犠牲となった。その記憶を留めるものはあの祈念碑以外どこにも見当たらなかったが、逆にどの路地を歩いてもホアキンの碑文に記された言葉が僕の中でずっと反芻され、思いがけずホアキンに導かれ、普通にしていたら決して気づくことのない歴史の上に堆積したさまざまな表情のマニラ市街を一日中さ迷い歩くこととなった。

Thursday, April 16, 2015

マニラ、マテラ地区のスラム



マニラ市マラテMalate地区の北半分は歓楽街、南半分はスラム街だ。僕の泊まっているゲストハウスはこのちょうど中間にある。政府が作ったロータリーの公園周辺は日が落ちて涼しくなるとスラムの子供たちが集まってくる。
子供たちにとって世界はこの数ブロックで、どの家も同じように貧しいから特に自分が貧しいとかいう自覚もなく、毎日そのおかれた環境のなかで楽しんで生きている。
夕方、この公園のベンチに座って彼らを眺めていると、心がなんだかほっこりしてくる。

Wednesday, April 15, 2015

サン・ミゲルと日本人町


毎晩のように僕がお世話になっているそこそこお気に入りのフィリピンのビールは、日本円で100円するかしないかの「サン・ミゲル」という銘柄だ。その 「サン・ミゲル」と同じ名前の日本人町が かつてマニラのディラオDilaw地区にあったらしいことを最近になって知った。

かつてとはどれくらい前かというと、調べたところによるとそれは16世紀後半。イエズス会の日本でのキリスト教の布教が開始されてからわずか数十年後に豊臣秀吉のキリスト教弾圧が始まり、その時期、キリスト教に改宗した多くの侍が迫害を逃れこの土地にやって来たのであるらしい。 その数は16世紀後半でおよそ500人あまりに及んだ。

当時「ニッポニーズ」と呼ばれていた日本人町に「サン・ミゲル」という名前がつけられたのは、彼の地に移住してきた日本人の多くが、商人でも農民でもない武士たちで、キリスト教の守護聖人の中で彼らに人気があったのが戦闘の剣を手にする大天使聖ミカエル、つまり「サン・ミゲル」であったからだという。 (ついでに付け加えておくと、あのジャンヌ・ダルクに啓示を与えたと言われているのも大天使聖ミカエルである)

現在のフィリピンのマニラを歩いていて目につく日本人旅行者の集まる日本料理屋やカラオケバー、風俗店、観光地は言うに及ばず、70年前の第二次世界大戦の歴史、さらには18世紀後半から19世紀前半の戦前日系人社会の歴史を、イメージの翼をひろげて大きく飛び越え、スペイン植民地時代のこの土地でスペイン語を話す日本の侍たちの数奇な人生に想いを馳せ「サン・ミゲル」をあおりつつマニラの夜を一人過ごしている。

Tuesday, April 14, 2015

フィリピンと日本の人口推移


いろいろ考えさせられることの多いのフィリピンと日本の人口推移の表だ。

lechon manok


鶏の丸焼き lechon manokは180ペソ、480円ぐらい。

『恋愛のディスクール』



旅行者の僕にとってマニラの良いところのひとつは、その英語環境がしっかりしていることだ。

たとえばマニラなら、ふとロラン・バルトの『恋愛のディスクール』の一節が気になっても、それなりの本屋に行けば、立ち読みでその部分を確認できる。もっともバルトは英語も翻訳だし、バンコクなら日本語で読めるのかもしれないけれど。

「わたしがあの人を愛しているのは、あの人の属性(記帳された)のせいではなく、あの人の存在のせいなのだ」

「恋するわたしは狂っている。そう言えるわたしは狂っていない。わたしは自分のイメージを二分しているのだ。自分の眼にわたしは気のふれたものと映る(わたしは自分の錯乱のなんたるかを識っている)のだが、他人の眼にはただ変っているだけと映るだろう。わたしが自分の狂気をいたって正気に物語っているからだ。わたしはたえずこの狂気を意識し、それについてのディスクールを維持しつづけている」

ここにある「あの人」をあるいは「異国」に、「恋する」を「旅する」に置き換えてみることもできるかもしれない

「旅」 を語ることの難しさ 、それから自分の「狂気」について考えてます。

Monday, March 30, 2015

Baby Back Ribs

フィリピンに行ったらぜひトライすべし! とある敬愛する人物から薦められていた Baby Back Ribsをマニラ滞在3日目にようやく食しました。
ナイフはほとんど要らず、フォークでほろほろと肉がほぐれ取れてきて、 ソースの漬かり具合もよく 脂っこすぎることなく大変美味でした。